曙橋人 第1回 [住吉町商工会長 大角和平インタビュー Part1]

あけぼのばし商店街でよく見掛ける“街の人”を紹介する【曙橋人】のコーナーです。
商店街は、商品やサービスを提供しているだけでなく、地域の子どもの見守りなど安心安全の要でもあり、高齢者が集う場となるコミュニティの核でもあります。その人の輪を作っているのは、“街の人”です。
このコーナーで最初にインタビューするのは、あけぼのばし商店街を運営する住吉町商工会長「大角和平さん」です。
※ 本稿は2016年の記事です。記事中の役職等は当時のままにしています。
※ 現在のあけぼのばし商店街の会長は「三輪政憲さん」です。現会長のインタビューもありますので、そちらもご覧ください。

簡単なプロフィール

氏名: 大角 和平 (おおすみ かずひら)
生年月日: 昭和26年(1951年)9月27日
血液型: A型
趣味: 読書(佐伯 泰英が現在のお気に入り)、旅行

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<写真> 夏祭りのとき、神酒所の前で

戦前は、軍人御用達の町だった。

Q 昔の曙橋周辺の話から教えていただけますか?
A あけぼのばし通りは、フジテレビが河田町にあった頃は、フジテレビ通りといっていて、その前は住吉町通りでした。その住吉町通りの頃、玉屋は、もっと商店街の入口付近、現在の靖国通りの近くにありました。台町坂の広い道路ができるときに移転を余儀なくされました。
靖国通りが戦時中に戦車を通すためにできた道路でしたし、現在の防衛省は士官学校や参謀本部だったので、曙橋は軍人御用達の商いの町でした。
また、戦前戦後も、仲之町などの高台はお屋敷町で、市谷谷町という町名だった現在の住吉町は長屋が並ぶ平民街って感じでしたね。
その頃は、角筈(現在の西新宿)の辺りもさみしかったですよ。大木戸より西はかんぴょう畑が広がっていました。戦後、駅が開発され、デパートができ始めてから人が多くなりました。小田急百貨店ができて(現在の小田急ハルクの場所)、その後、京王百貨店、小田急新館と出来上がるにつれ、混雑するようになりましてね。地下のバスターミナルができるまでは、本当にガヤガヤしていました。
Q 大角さんは、どのような少年時代を過ごされたのですか?
A 台町の現在はファミリーマートのある辺りにあったお産婆さんのところで産湯に浸かりました。生まれも育ちも住吉町です。町会では、共栄町会の方ですね。住吉町から仲之小に通う子どもも、グループがあってね。共栄町会の方は人数が少なかったから、小さくなってましたよ。
昔は家に風呂なんてなかったですから、みんな銭湯でね。その銭湯で聞く大人の話が面白かったんですよ。あれで随分世の中を教えてもらった気がします。
フジテレビがまだできる前のお屋敷跡地の塀には穴が開いていて、入り込んで遊んだものです。お化け屋敷と呼ばれてて、ちょっと不気味な雰囲気もありました。このお屋敷跡地だけでなく、この頃は、他にも遊べる広場がこの辺りにも沢山ありました。
その後、フジテレビの建設が始まり、現在のコンフォガーデン・クリニック脇のエレベーター辺りに建設作業員の飯場が立ち、そこの子どもたちが仲之小に来ていました。仲良くなった子も何人かいたのですが、フジテレビが完成すると、別の現場へと引っ越していってしまいました。
フジテレビは、格好の遊び場でした。子どもは大道具・小道具用の裏口から自由に出入できて、撮影中のスタジオに入り込んでも、怒られませんでした。なんともおおらかな時代でした。
スタジオでドラマの撮影を見ていたときは、殺された人(俳優)が、「カッ~ト」の声ですくっと起き上がり、服を着替えるのを見て、なんだか世の中の裏側を見た気分になってものです。
出入りは自由でしたが、いたずらしているのを見付かると、こっぴどく怒られました。あの時代ですから、守衛さんにげん骨で殴られたものです。あと憶えているのは、フジテレビのタクシー乗り場には必ずといっていいほどお釣りの小銭が落ちていて、「宝だ宝だ」と言って拾いに行っていました。
Q 学校はどうでしたか?
A そんなやんちゃな子どもではなかったですが、夏場は学校のプールに勝手に入り込んで遊んでいましたね。冬は冬でそのプールに、面白半分にゴミを放り込んだりして、どちらも見付かると、これまた殴られましたが。
小学校の一学年は3クラスでした。登下校等は、地区で10人ほどの班になり、上級生が仕切っていました。朝のラジオ体操なんかも、校庭に集まったりせず、その辺の道路とかで、上級生が音頭をとって班毎にやっていましたよ。
Q ガキ大将もそうですが、昔は子どもだけの世界がありましたね。
A 昔は、家族旅行なんかもしませんでしたからね。特にうちなんかは商売だから、休みなんてないようなものだし、特に長い休みなんて取れないから、町会の祭りの鉢洗いで船橋ヘルスセンターに行ったりしたのが旅行みたいなもんでした。そこでも、親というより、上級生が下級生の世話をしていました。町全体が家族のような感じでしたね。
遠出というと、上級生に連れられて大磯ロングビーチまで行ったことがありました。親とかに断りもせず、朝集まったときに「大磯ロングビーチに行こう」となって、お金なんてせいぜい電車賃を出せるくらいしかもってなかったので、大磯まで行ってプールで遊び、飯も食わず(食えずに)にすごく腹を空かせて帰ってきました。
Q まさに“古きよき時代”ですね。
A あとは、やっぱり映画ですね。昔は、街頭映画っていいましてね。片町の、今の曙橋がある辺りに丸太を2本立てて、その間に白い幕を張ってスクリーンに見立て、「次郎物語」や「野麦峠」「西遊記」のような教育委員会推薦って感じのものを放映していました。それでも、子どもは大勢集まって喜んで観ていましたよ。
高校生になると、新宿の映画館にも行ったけれど、超満員でした。通路までビッチリ座っていて、あの頃はタバコも吸うものだから、後ろの方からだと、スクリーンが煙で曇って見えることもありましたよ。当然空気も悪くて、映画館を出ると頭が痛くなったものです。トイレとかも大行列でしたし、お年寄りに席を譲るなんてあり得ない、席なんて空いていたらメッケモンという時代でした。
今から振り返ると、道徳的にもどうなんだろうという面もありますが、生きるためのエネルギーが感じられた時代ですよね。そして、東京オリンピックに向けての工事なんかでも、日本の名誉のために、戦争で負けた汚名を取り返すために、といった気持ちがありました。そういう空気と、個々人の欲がうまく絡み合った時代だったのかなと思います。

元祖“イクメン”

Q そして、職人になるんですよね。
A 中学・高校は、結構勉強しましたよ。奥手でしたし、そんなにやんちゃはしませんでした。そして、静岡に修行に行きました。
Q ご結婚、早いですよね。
A 22歳でしましたからね。まだ修行中の身で結婚して、結構怒られました。でも、何もいい加減な気持ちで決めた訳じゃなかったんでね。ちゃんと「この人」と思えたから決心した訳で。これも“縁”なんだと思います。結婚式の仲人も、修行先の社長にやっていただきました。
Q そして修行を終えて帰ってきました。
A 嫁さんを連れて帰ってきたことに、「何をしに静岡に行ってきたんだ」と言われたりもしました。なにくそ、という思いをエネルギーにして仕事に打ち込みました。
Q お子さんは3人ですね。
A そうです。24歳で長男が生まれました。商売をやっているのでね、当然共働きですし、夜泣きをあやしたり、オシメ換えも全部やりましたよ。夜中にミルクを温めて飲ませたこともあります。
Q 元祖“イクメン”ですね。
A 当たり前だと思ってたからね。だって、夫婦二人の子どもなんだし、二人で分担して育てるというのは大前提なんじゃないのかな。どちらかに偏っている方が不自然に感じます。
お風呂にも入れたし、大きくなってからは塾の送り迎えもやった。休みの日には、どこへでも連れて歩きましたよ。忙しくなってから、仲之幼稚園への迎えは、パートさんに頼むこともあったけどね。こういうときは、自分で商売をしているとありがたいよね。
Q 勉強になります(汗)。さて、以上でPart1は終了です。ありがとうございます。
A ありがとうございました。
Q 次回は、商売のことについて伺っていきます。大角会長が玉屋に戻ってきた頃、一日の売り上げは3,000円しかなかったそうです。どん底から這い上がるために打った、奇跡の一手とは?
次回をお楽しみに!!

次回:曙橋人 第1回 [住吉町商工会長 大角和平インタビュー Part2]
「売上げ一日3,000円から這い上がる!!」
「いちご大福誕生の秘密」
どうぞお楽しみに!!!

[編集後記] ()大角さんは、生まれも育ちも住吉町の地元の方で、勿論、地元を愛していらっしゃるのですが、同時に冷静に俯瞰して分析なさっているのも印象的でした。また、ただ「昔は良かった」という懐古主義ではなく、子育てでは“イクメン”というレッテルを超える考えをお持ちでした。周りに流されず、自分で道を拓いてきた方ならではのオーラを感じました。
次回は、苦境にあった玉屋を立て直すべく、大角さんが奔走します。昔、売上が1日3,000円の時代があったなんて、今の玉屋さんからは想像できませんよね。商売人は特に必見です。

 大角玉屋

東京都新宿区住吉町8-25
TEL:03-3351-7735
Oosumitamaya_300
[自社ホームページ] http://www.oosumi-tamaya.co.jp/
[食べログ] http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130903/13095298/